遊びの定義
「遊んで暮らしたいですか?」
遊ぶこと=楽しむこと、快適な枠内で心が動くこととしたら、私はハイと答えます。
仕事には子どもが全力で遊ぶように取り組もう!と、ここ数年意識(常日頃いちいち気にかけてはいませんよ。ただ、生来の資質としてはきちんとちゃんとしたい優等生タイプなので、潜在的には意識し続けていると思います)していました。
周囲からそういう人として見える程度には、変化したかな。
「好きに生きてる」
「自由そう」
「いまの暮らしに満足していて不満がなさそう」
と、いまはよく言われます。
自分の不遇(?!)をすべて他人のせいにする、ちょー不満たらたら女でしたので。
アクセルとブレーキをいっぺんに踏みながら遊ぶような数年間は目まぐるしかったものの、責任を自分に取り戻せてよかったです。
「マジョリティに認められるちゃんとした大人な社会人として在りたい」という欲を手放すことができたかなーと思います。
とはいえ、遊び=仕事と心の底から思っているかといえば、思っていません。
はじめに書いたように
遊ぶこと=楽しむこと、快適な枠内で心が動くこと
とすれば、心の底からそう思えます。
子どもの全力の遊びって無垢なだけに、大人からするとびっくりするような残虐性があらわれたりしますからね。
ザリガニにBB弾打ち込んでみたり、虫の足むしってみたり…。
100%子どもの遊びを仕事で体現しようとすると、集団生活には支障がでやすいと感じています。
それがいい悪いではなく、
わたしの場合は「個を全開に解放して生きる」よりも、「集団の中でどれだけ個を解放して生きるか」に嗜好がむいているようです。
支障をきたしてもなんのその!と思うほどのなんかしらの情熱はありませんでした。
こんなのいちいち考えなくても社会生活を快適に送ることはいくらでも出来ると思うのですが、わたしにはここをいったんはっきりさせることが必要だったようです。
集団のことなんて気にしないで自分の解放を体現している人は目立ちますし、バーンと振り切れてる感じでかっこいいし、カリスマ性があるし、魅力的…と(わたしは)なりやすいのですが、
そこを目指しつつも、なんか違うな??というのがこの1年つよくなってきました。
個を生きるのか?
集団(枠)の中で個を生きるのか?
ただの嗜好の違いでしかないんですよ。
これ以上前者を目指すことのバカらしさを覚え始めました。
前者を目指したからこそ「個を生きる」感覚が身に付いたので、前者を目指すことがバカらしいとは思ってませんよ。
まわりみちだったなーと思わなくもないですが、螺旋階段をぐるっと回れてよかったなーという気持ちの方が断然強いです。
まわりみちした一番の収穫は、
「(社会一般に認められるような)きちんと真面目に正しい働き方をしなくても、喜楽に生きられる」
このことを知り、体感し、実感したことですね。
仕組みはまだ分かっていませんが、遊ぶように仕事していると、気がついたら遊ぶだけの時間やお金や物など、諸々の余裕が手元にあらわれるようになりました。
この状態を楽しむ穴から、わたしはどうやら抜けるようなので。
「ちゃんとしたい」という生来の欲も満足させられるような暮らしぶりに移行していこうと思います。