きっと人生で最初で最後のロングインタビュー

この記事は、2020年7月(息子を妊娠中の時。入院するほどのつわりがやっと落ち着いた頃。写真は最近のものです)に、はんだあゆみさんがインタビューし、執筆してくださったものです。自分が話した通りに書いてあるかというと違います。インタビュー記事ってそういうものですよね。はんださんを通した私はこんな人でした。

「人生に無駄な経験無し!」

真美さんは高尾に暮らしている。

最近ご結婚されて冷蔵庫を購入されたが、それまで10年間冷蔵庫のない生活を送っていた。発酵や塩漬けなど、昔ながらのさまざまな知恵を使って無駄なエネルギーを使わない暮らしを実践されてきたのである。

真美さんはパームハウスという名のサロンを開業している。フェイシャルエステからタイ古式マッサージ、チネイザンとリラクゼーションマッサージを提供するサロンだ。

また、真美さんは障害のある方のお宅を訪問して日常生活の介助をするヘルパーもしている。かと思えば、発達にトラブルを抱えたお子さんのための児童発達デイサービスにお勤めだったこともある。

そして、環境保護や日本のエネルギー政策、沖縄の基地問題、その他さまざまなことに関心を持ち、発信を続けている。さらにまた、コアな漫画読みで面白そうな漫画やアニメを「これいいですよ」と紹介してくれる。

興味関心の幅の広さと深さ、やってきたことの経験値がすごいのだ。

前々から、どんな風に今の真美さんが出来上がったのかとても気になっていたのだけれど面と向かって聞くのもなんだしなーと思っていたら、今回、真美さんの方からインタビューの依頼をくださったので、ラッキー!とばかりに根掘り葉掘りお話を伺った。

安定志向で冒険が苦手な私からすると、真美さんの働き方は綱渡りのようでドキドキするのだが、だからこそ、逆にとても惹かれるものがある。

うちの夫婦に離婚問題が持ち上がった時、手に職もなく別れたらどうやって食べていけばいいのかと、私がかなり動揺していた時期があった。その時真美さんが「私は年収これくらいの時でも一人暮らしでやっていけましたよ」と具体的な金額を教えてくださった。「えっ? ほんとに?!」私は耳を疑った。いろんな人からアドバイスを頂いたけれど、一番具体的で勇気をもらえた一言だったと今も思っている。一人で生きていくことのハードルをググっと下げていただいて、一気に気が楽になったのだ。

今回は真美さんがどうやって今の真美さんになったのか、というお話ができたらと思っている。

社会人のスタートはユニクロ——二十歳の夏

真美さんは二十歳の夏に社会人になった。フリースが世の中に認知され業績が急激に伸びていたユニクロで接客と販売を行うアルバイト、これが社会人一年目の真美さんのお仕事だった。

当時のユニクロは一店舗の売り上げが1〜2千万あることも珍しくなく、レジ締めを担当するとなかなか帰れなかったという。小銭も含めた1千万以上のお金を手作業で計算するのだ。9時にお店を閉めても終わるのが深夜1時を回ることも多々あり、真美さんは「なんて無駄な作業なんだろう。こんなのカウンター(お金を数える機械)があればすぐ終わるのに」と思っていたそうだ。私などは、一千万円を超える現金を扱うというとそれだけでビビってしまうのだが、真美さんはひたすらめんどくさいなーと思っていたという。

清里との出会い——最初の転機

ユニクロで働く傍ら、真美さんが二十歳から参加していたのがYMCAの野外活動ボランティアだ。このYMCAの夏のキャンプで清里に毎年二週間滞在するのだが、通い続けるうち真美さんは清里にほれ込んでしまった。そこで、清里で働こうと仕事を紹介してもらって引っ越すことにした。勤務先はキープ自然学校というところで、約三年ここで働いた。

それまでの真美さんは、自分の買い物に意識を払う、ということがなかったそうだ。当時は今よりずっとカードも作りやすかったため、欲しいものがあればカードで買っていた。借金している意識もなく、ヒステリックグラマーやヴィヴィアンウエストウッドのブランド服を買ったり、エステや高級化粧品にお金をつぎ込んでいた。ところが、清里に来てみると、買おうと思っても店がない。消費できるところがないのだ。これが真美さんにとっての最初の転機になる。

実は、真美さんが化粧品やエステなど美容にお金をつぎ込んでいたのには訳がある。中学の頃からにきびに悩んでいた真美さんは、肌に良いと言われると買わずにいられなかったのだ。コンプレックスに付け込まれ、キャッチのお姉さんの言うなりに財布を開いていたという。

ところが、もう一度言うが清里には店がない。真美さんの消費は自然と抑えられる。それでも顔くらい洗わないわけにはいかないので、その頃はしりだったネット通販で洗顔せっけんを取り寄せて使ってみたところ、これがとても調子がよかった。説明を読むとこのせっけんで頭も洗えると書いてある。それならば、とシャンプーをやめてせっけん一本で体中洗うようになった。

どうなったか? 見事に一週間でニキビが消え、体に出ていた吹き出物もなくなってしまったのだ。

真美さんはびっくりしてしまった。これまで使っていた洗顔料やシャンプーが体に合っていなかったのである。あれだけ化粧品にお金をかけてきたのに、改善すべきはそこじゃなかったなんて。『経皮毒』という言葉を知ったのもその頃だったという。もともと化学物質に対して過敏な体だったのに、合わない化粧品や合わない素材の服を着て肌を痛めつけていたことに気づけなかったのである。

そこから真美さんの買い物の意識が変わった。布ナプキンを使うようになり、服を買うときにも素材を重視するようになったのである。

ただ、素材や成分は吟味するようになったが、それでも目に入ってくる気に入ったものは衝動的に買わずにいられないというところは変わらなかった。カードで買ってあとから働いて返せばいいやと思うのだが、自分が稼げる金額と使っている金額のギャップに気づけないのだ。のちにそれが、自分の発達特性から来ているということを知るのだが、それまでお金のトラブルは多かったという。債務整理も20代で経験している。

「環境の力って大きい」——政治への関心が芽生えた理由

キープ自然学校時代には、真美さんの中に環境や政治に対する意識の種がまかれた。当時20代の真美さんは、政治に興味も関心もなかったのだが、職場の同僚にやたらとそういうことに熱心な人がいたのだ。その人は、事務所の壁に沖縄の基地問題や、当時の小泉内閣が進めていた教育基本法改正に反対するチラシをバンバン貼っていて、あからさまに関心のない真美さんにも毎日なんやかやと話かけてくる。真美さんは興味がないから話しかけられてもうるさいなーとしか思わない上に、その人とも特に仲がいいわけでもないので政治的話題をずっとスルーし続け、考えてみようとも思わなかった。

そうこうするうち、キープ自然学校を辞め実家に戻ってバイト生活に戻った真美さん。だがバイト先には政治的な話をする人が一切いなくなり、急に不安になってしまったのだった。

毎日シャワーのように浴びていた政治についての話題が急に無くなった。供給が途絶えたのである。でも誰も話題にしないからと言って社会問題が消えて無くなったわけではない。自分がそれを知らないでいることへの不安がむくむくと首をもたげてきたのであった。

「環境の力って大きいな、とこの時思いました。興味って接触回数で増えるんだなって」

その経験があったから、真美さんは政治や環境問題についての発言をためらわない。今は関心がなくても、いつか興味を持てる時が来るかもしれないと思って伝えることを大事にしている。

ネパリバザーロへ——「正しく消費する」への目覚め

清里での暮らしで、自分の消費行動を180度転換させた真美さんは、正しく消費するということに関心を持つようになった。そんな時に「買い物で世界を変える」をスローガンに掲げてフェアトレードを推進する「ネパリバザーロ」という会社を知り、魅力を感じて働かせてもらうことにした。

ところが、ネパリバザーロには膨大な仕事があった。やってもやっても終わりがない。それをこなすために残業や休日出勤が当たり前という雰囲気があり、それにあわせようとすると体力がもたない。ただでさえ仕事の内容は楽しくて過集中になりがちだったので、余計に体を休める日が必要だったのだ。瞬発力はあってもそれを継続させることがむつかしい真美さんは、スイッチが切れたように動けなくなり出社できない日が続くようになった。求められた仕事をこなせない以上、ここで働き続けるのは無理である。真美さんは今も大好きなネパリバザーロを辞め、次の仕事を探すことにした。この時にも、集中力はあっても踏ん張りがきかないという自分の特性を自覚したのであった。

27歳で発達障害の診断を受ける

真美さんが、お金の使い方や働き方に感じていた自分とほかの人たちの違いを、発達特性として理解できたのはYMCAのボランティアのおかげだった。野外活動には発達障害を持つ子もやってくる。安全に過ごしてもらうためには、彼らの特性や対応を学ぶ必要がある。学びの中で「発達障害」という概念を知った真美さんは、その頃出版された「片づけられない女たち」というAD/HDの当事者が書いた本を読んで、自分にも重なる部分が多いと気づいたのだった。そして、27歳で発達障害の診断を受けたのである。

一般的な大人の発達障害当事者の方々は、子どものころから生きづらさを感じていることが多い。環境の変化にも弱く、決まったルーチンの中で暮らすと安定するのだが、クラス替えやイベントが苦手という傾向がある。だが、真美さんは子どもの頃から優等生で学校も大好き、体育祭や文化祭などのイベントも率先して盛り上げるタイプだったため、学校は楽しくて仕方なかった。自分の裁量でやりたいようにできる場があれば活躍できるので、先生方からもかわいがられて学校生活を送っていたのである。なので自分が何らかの障害を抱えているとはまるで思いもしなかった。

自分の特性に気づいたのは社会人になり、組織の一員としてのふるまいを求められるようになってからである。集中力を発揮してすごい量の仕事をこなしたかと思うと、電池が切れたようにぱたりと動けなくなる自分。組織への影響力や責任を抱えて生きるのは、自分の踏ん張りのきかない体では無理だと自覚でき、それならどうしたらいいだろうか?と働き方を考えるきっかけになった。

発達障害の診断を受けると同時に投薬も始まった。しばらくリタリンを服用してみたのだが飲むとびっくりするくらい頭の中が静かになることに慣れなかった。普通の人はいつもこんなに静かな中で生きてるんだなと思ったが、同時に自分は賑やかな頭の方が楽しくて好きだとも思った。だったら、このにぎやかな頭で生きていく方法を考えようと決め、服薬はやめたのである。

真美さんらしくて大好きなエピソードだ。薬で自分の衝動性や踏ん張りの利かないところを何とかして他人にあわせる生き方を選ぶのではなく、このままの自分で生きていける環境を自分の周りに作ろうと考えたのだった。

「自分がダメなんじゃなくて、環境と合ってないだけ」

私は一つ疑問だった。「仕事やお金で躓くことがあると、普通の人みたいにできない自分を責めちゃったりしませんでしたか?」

真美さんは間髪置かずに答えてくれた。

「自分がダメっていう考え方はあんまりしないですね。今いる環境と私が合ってないんだなって思う。幸い、うちの両親は今も昔もラブラブで私が育つ過程で親から否定された経験がないんです。安心できる環境で親に受け入れられて成長できた、というのは大きい気がします。」

ここが、真美さんの最大の魅力なのだ。まぶしいお日様のような人だと思う。

東京ガスへ——初めての大企業サラリーマン生活

ネパリバザーロを辞めることにした真美さんは、以前から興味のあった環境教育の分野で仕事を探した。希望にぴったりの「環境エネルギー館」で求人があるよと清里で知り合った人が教えてくれたのだが、残念ながらこちらは不採用となり、そのあとに同じ東京ガスのグループ企業である東京ガスコミュニケ―ションズが運営する「ガスの科学館」に採用となった。

ここで真美さんは、来館者に向けた実験ショーやワークショップなど自分で企画して自分の裁量で動く働き方を手に入れた。初めて大企業で月給をもらって働くサラリーマンになったのだった。

大企業で良かったなと思ったところは二つある。社会人になって初めてマナー研修を受けられたことと、働けなくなった時のフォローの手厚さだ。マナー研修は、SST(ソーシャルスキルトレーニング)のようで面白かった。こういうときにはこう返すのが常識なんだな、とその時初めて知りその後の社会人生活が楽になった。

企業のフォローの手厚さを実感したのは、過集中による電池切れで一か月会社に行けなくなった時だ。それまでの仕事先では「できないならそこまでだ」と自己責任で解決することを求められていたように感じてきたが、東京ガスでは働けなくなった時にどうすれば働けるだろうかと上司が一緒に考えてくれた。そこで真美さんは当初希望していた「環境エネルギー館」への異動を願い出る。施設を越えた異動は異例のことだったが、上司たちは手を尽くして真美さんが働ける環境を作ってくれた。

移動先の「環境エネルギー館」では、来館者が楽しみながらエネルギーや環境問題にまつわる幅広い知識に触れられるようにすることを大事にしていた。もともとやりたかった仕事なので、真美さんは毎日楽しく働いた。が、その頃ちょうど東日本大震災が起きる。福島第一原発の爆発というニュースは関東全域に不安をまき散らし、やってくる人たちから「原発大丈夫よね?」と聞かれる機会が一気に増えた。真美さん自身は原発には反対の立場だが、東京ガスは原発推進の立場。このはざまで葛藤して、結局辞めることになった。

「仕事は自分で作れる」——起業という選択肢との出会い

真美さんは、けれど次の職場を探さなかった。なぜか。この時すでに、リラクゼーションサロン・パームハウスを自宅で開業していたからだ。サラリーマンをしながら「毎日決まった時間に起きて決まったところへ行く仕事は自分には難しい。それに自分が休んだ時に誰かに迷惑がかかるシステムの中で働くのはしんどい」と感じていた真美さんは、働きながらこれからの生き方を模索していたのである。

起業のきっかけは2008年に越ケ谷で行われたWATER&GREENというイベントだった。これは環境問題を考える催しだったのだが、ここで真美さんは初めて「起業家」の友人ができる。どこかに勤めて、給料をもらうだけが働くということではないんだ、仕事は自分で作れるんだと気づかせてもらうきっかけになったのがこのイベントだった。

そこから「起業」という選択肢にアンテナを立てた真美さんは、さまざまなセミナーや書籍でそのノウハウを学びだす。本田健さんのセミナーも受け、自分の好きなことって何だろうと考える日々だった。

以前からマッサージは受けるのも人にしてあげるのも好きだった。ボディケアの技術を学ぶのは楽しかったし、それで人に感謝されるのも悪くない。そうこうするうちに、環境フェスで出会った友達がマッサージの仕事をしていて「真美ちゃん、ボディケアに興味があるならうちの社長に会ってみたらいいよ」と勧めてくれた。それならと会ってみるとこの人が大変面白い人で、腕も確か。この人から学んでみようと、真美さんは社長にマッサージの技術を習いに通った。2010年の年末から年が明けるまで、タイに滞在し本場のタイ古式マッサージを習いに行ったりもした。そんな風に真美さんの中では、起業してリラクゼーションサロンをメインの仕事として生きていく未来が出来上がっていたのである。

ただし。「これ一本で食べていく」という選択肢は真美さんの中になかった。自分の特性から、ずっと同じことをしていると飽きるだろうと予想もできたし、電池切れが起きた時にサロンの予約がびっちり入っていると休みたくても休めない。ならば、マッサージのほかにも何か持っていた方がいいと思った。

高尾へ——自分らしい生活スタイルの完成

川崎、横浜と住んできた真美さんは、清里のような自然あふれる環境に住みたいと願い、高尾のふもとに越してきた。すると周囲には、障害のある方のご自宅へ伺って日常生活の介助をするヘルパーをして暮らしている人が多く、知人も障害者のための事業所を運営している。そんな人たちに、ヘルパーの仕事もやってみないかと誘われた。渡りに船である。真美さんは、起業家として自宅サロンを運営しながら、月に何度かはヘルパーの仕事をする、という自分にとって楽で稼げる生活形態を手に入れたのだった。

自分の特性とうまく付き合いながら生活を組み立てる工夫をしてきた結果が今なのである。

名言連発のインタビューを終えて

真美さんの魅力がつたわっただろうか。

「やってみたこともないことをあーだこーだ言っても始まらない」という思いが行動の源にあり、とにかく自分で経験してみることを大事にされているのが真美さんなのだ。

今回は、お仕事にまつわる部分をピックアップしてお話を伺ったが、真美さんが経験してきたことは仕事だけにとどまらない。旅行、イベント、ワークショップ。真美さんがチョイスするものは、面白いものばかりでその話を聞いてるだけでも興味が尽きない。

「にぎやかな頭のままで生きていく」
「他者への責任や影響力を抱えて生きることをやめる」
「自分がダメなのではなく環境と自分があってないだけ」

名言連発のインタビューだった。

こんな真美さんの施術を受けてみたい方は、どうぞこちらからご連絡を。